作家 清水一行と北日本ビル
作家 清水一行と北日本ビル
私(随筆春秋代表 近藤 健)の会社北日本石油株式会社は、 かつて東京都中央区日本橋浜町2丁目14-5にありました。 地上6階地下1階の自社ビル「北日本ビル」です。6車線の1方通行の清洲橋通りを挟んだ向かいに明治座があります。建物の登記簿謄本を見ると、建築年が「昭和7年以前」と記されています。東京大空襲の被害で登記簿の原本が焼失したために、建築年がわからず、このような表記になっています。北日本ビルの天井は、駿河台の山の上ホテルの天井と瓜二つで、とても凝った造りになっていました。
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北日本石油の旧社屋、北日本ビル。1987年(昭62)年4月26日撮影
(「ぼくの近代建築コレクション」よりお借りしました)
東京大空襲の空撮の写真に北日本ビルが写っています。もっとも当時は、「焼きビル」と称され、5階建ての病院でした。それを買い取ったのが新田建設の新田新作社長です。新田建設は、この焼きビルを拠点にして東京の瓦礫処理で巨万の富を得るわけです。新田新作はヤクザの大親分です。
終戦直後、東京・神田上空から見た隅田川両岸=1945年
(米軍撮影、朝日新聞デジタルより)
新田新作は、潤沢な資金力を背景に明治座を再興します。続いて、近所の浜町公園に国技館を建て、大相撲の再興もはかっています。新田建設は、資材部長に力道山(当時は関取)を迎え入れ、後にプロレス興行への後押しをはかります。焼きビルの5階にリングを作り、力道山はそこでトレーニングをしていたといわれます。
日本ヘビー級王座に輝く力道山(Wikipediaより)
時は下り、オイルショックが起こります。そのあおりを受け、新田建設の事業は大きく傾きます。そのとき、当社が新田建設の社屋を買い取るわけです。当時の新田建設の社屋は、5階建てでした。そこに1階を建て増しして、6階を会議室として使用しました。私は、1983年の入社以来、この北日本ビルで仕事をしていました。当社が今のテナントビルに移転したのは、2003年10月のことです。ビルの外壁の一部が剥がれ落ちたのが原因でした。
清水一行の『札束時代』は、その新田新作の一代記です。これを読んで、当時の話がリアルに伝わってきて、大いに納得した次第です。
札束時代―赤たん褌 (角川文庫) 文庫 – 1990/10/1
清水 一行 (著)
終戦直後の写真には、現在もある久松小学校と久松警察署が見えます。この一帯は久松町で、久松様のお屋敷があったと聞いていますので、松山藩の中屋敷または下屋敷※跡でしょうか。夏目漱石も正岡子規も松山から出てきた当時は、ここにあった宿舎に滞在しています。
話はつきません。このへんで。
随筆春秋代表 近藤 健
※上屋敷は、多くは、現在の大手町界隈にあり、主に藩主とその妻子らが暮らした。藩主はここから江戸城に出仕する。中屋敷は、主に、隠居や世継ぎや藩主の弟のための住まい。下屋敷は、国元からの荷を揚げるため主に水辺につくられた蔵屋敷。別荘としても用いられた。柳澤吉保の下屋敷「六義園」が有名。このように、大名は江戸に3つの屋敷を持っていた。
◆ 解説 ◆
随筆春秋代表の近藤 健が勤務した北日本石油株式会社は、もとは日本橋浜町に自社ビルがあった。日本橋蛎殻町に移転する前の社屋である。その旧社屋は、小説の舞台となった。
清水一行の『札束時代―赤たん褌』で、徳間文庫(1982年)と角川文庫(1990年)が上梓されている。以下があらすじ。
「やくざ上がりの賭博師 春本竜作が、戦時中にアメリカ兵捕虜を助けたことから、終戦後、GHQから大金を得て、それを元手に建設会社の社長に変身。平たくいえば土建屋である。だが、主人公は女好きで、次から次へと愛人をつくる。やがて、そのことが原因で全財産を失う。洪水のように儲け、豪雨のように浪費し、男の夢(?)腹上死を遂げた快男児の痛快一代記。赤褌は女房が締めさせた浮気封じだった」
清水一行は、高杉良、城山三郎とならぶ経済小説の第一人者である。
かつての日本橋浜町の自社ビルは、北日本ビルと称していて、外壁の一部が剥離するなど、構造的な問題が起こるまでは、北日本石油の社屋として機能していた。2階が北日本石油(株)東京支店で、3階が北日本石油(株)本社、5階は同営業部と社長室、6階が会議室であった。
この北日本ビルだが、1936年(昭和11年)の火災保険地図には、同じ場所に、優生病院との記載があり、これは中村庸二建築事務所ホームページにある、濱町ビルヂングである。
濱町ビルヂングのスケッチ
(中村庸二建築事務所ホームページより)
1945年(昭和20年)の終戦直後の写真を閲覧すると、一面が焼け野原となった日本橋浜町界隈には、久松警察署と久松小学校、それに明治座と清洲橋通りを挟んで、当該ビルが焼け残っている。当時はこの建物を、焼きビル、と称していた。
終戦直後、東京・神田上空から見た隅田川両岸=1945年
(米軍撮影、朝日新聞デジタルより)
この焼きビルが、優生病院であり、その優生病院は濱町ビルヂングに入っていた。中村庸二建築事務所ホームページにそれに関する記述がある。以下にそれを抜粋した。
「簡素化しつつも建築の様式美を取り入れて、建築の持つ荘厳な雰囲気を持たせ、都市の中にランドマークとして存在する。震災で大きく壊れた東京の街を次々と復興する中で、新しく、そして力強くそこに存在する建築を中村庸二は求めていたのかもしれません。
この後、中村庸二は濱町ビルディングでその思いを形にします。明治座の前に濱町ビルディングは建築されました。
優生病院という病院の入った濱町ビルディング。自ら設計したその建物で中村庸二は41歳の生涯を終えました」
北日本ビルの天井は、お茶の水の「山の上ホテル」を彷彿とさせるような凝った造りになっていた。戦後は物のない時代である。濱町ビルヂングの焼け残った躯体や内装などを活かして、建物が再建された可能性もあるのではないか。
それが、1969年(昭和44年)の地図には、新田ビル、とある。 その新田ビルを北日本石油株式会社が買い取った。歴代の北日本石油の社員の間では、焼きビルは、解体ではなく、リフォームで新田ビルになった、と伝わっている。
つまり、濱町ビルヂング(優生病院)→ 焼きビル → 新田ビル → 北日本ビルという変遷を辿ったという見方もできる。
この新田ビルが、清水一行の小説『札束時代―赤たん褌』の舞台のひとつとなっているのだ。 主人公の春本竜作のモデルは、新田建設社長の、新田新作である。
ちなみに、北日本ビルと清洲橋通りを挟んで向かいに建つ明治座も、1945年(昭和20年)の東京大空襲で焼けたが、それを復興すべく、新しい明治座の建物を建設したのが、この新田建設である。新田新作は、その明治座の社長にまでなっている。
この一帯(浜町、人形町)は、関東大震災(大正12年)や第2次世界大戦(昭和20年終戦)を契機に浅草に繁華街が移るまで、江戸時代からの花街としてにぎわっていた。1980年代前半(昭和55年から昭和59年)には、まだ、浜町芸者をときおり見かけたし、三味線の練習の音も漏れ聞こえていた。「浮いた浮いたと浜町河岸に……」という歌もあるとおり、料亭も数多く存在する、粋な街であった。
「浜町河岸」(美人画)/ 鏑木清方の作
明治の浜町河岸(隅田川河畔)
了
2022.03.23
正倉一文
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