脚本家 竹山 洋。牛丼はご馳走……
【本業の傍ら随筆春秋を指導する竹山 洋先生】
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脚本家 竹山 洋
竹山 洋(脚本家)は、同人誌 随筆春秋の指導者でもある。オリジナルの紹介文をアップロードしようと、参考資料を漁っていたら、日本経済新聞の「こころの玉手箱」に掲載された記事が目に飛び込んできた。5回シリーズだが、どの回を読んでも、目頭が熱くなる。結果、著作権の問題もあるのだろうが、一切の加工を排除して、すべてそのまま転載させていただくこととした。
☞ 竹山 洋先生の詳しい経歴などはこちらをご覧ください。(←CLICK! Wikipediaへ)
(画像は、株式会社 Ami Filmの竹山 洋プロフィールより)
日本経済新聞5回シリーズ
脚本家 竹山洋(1)母の形見の指輪
こころの玉手箱
2018年4月16日 15:30 [有料会員限定]
埼玉県の所沢の米軍基地の外の銀杏(イチョウ)並木に沿って、オンリー(米兵の恋人)と呼ばれる女性たちの住む貧民街があった。殆(ほとん)どの家がトタン屋根のバラックだった。子供のころ、私はそこで暮らしていた。父は海軍上等兵だったが、終戦後に結核に罹(かか)り、家計は母が支えていた。
太陽のような笑顔の明るい人で、女優の原節子に似ていた。建設作業員宿舎の賄いをやったり、農家の茶摘み、草取り、稲刈りなど休む間もなく働いていた。それでも金はない。「一・六銀行に行ってくる」。一と六で七(しち)――つまり質屋のことである。よく質屋に行っていた。
私が小学校5年生になったころに国立病院に職を得て働きに出た。結核患者の付き添いだった。初めて患者についたときに、よろしくね、と咳(せ)き込みながら言われて子供に結核が伝染(うつ)るかもしれないと不安になり、辞めようと思ったが、日当がいいので辞められないと言った。
子供心にも母親の苦労は身に染みた。魚屋で働いたり、茶摘みの手伝いをしたりしたが、新聞配達の募集のビラを見て面接を受けた。5年生か、新聞配達は中学生からなんだよ、といわれて泣きそうになった。その顔を見て、店主が背が高いから中学生に見えるか、と微笑(ほほえ)んだ。
この指輪はその新聞配達の途中で拾ったものである。雪の日に、泥濘(ぬかるみ)の中に金色のものが光っていた。拾いあげてみるとぐにゃりと曲がった金の指輪だった。母にあげたいと思った。
「本物の金かもしれない」。母の嬉(うれ)しそうな顔は今でも忘れられない。本物の金だったら作り直して私がはめよう、とはしゃいだ。交番に届けろと誇り高い父は言ったが「淳ちゃんがプレゼントしてくれた指輪だもの」。母は掌(てのひら)に指輪を握り込んだ。
病院に出入りしている宝石商にみてもらったら本物の金だったのでそれを自分の指に合うように作り直したと、母は指の指輪を見せた。「お前がくれたんだから大事にする」と言った。以来死ぬまで指輪を外さなかった。父と離婚して女手一つで私と妹を育ててくれた母は人の世に真実の愛があることを教えてくれた。
撮影のときに裏に梅の模様が彫ってあることが分かった。寒梅であろう。
寒い冬の日にひっそりと咲く梅の花は気高い香りを漂わせている。
母の一生だと思った。
所沢航空記念公園(旧米軍基地)の銀杏並木
たけやま・よう 1946年埼玉県生まれ。早稲田大卒。ジャズミュージシャン、テレビ局の演出部などを経て脚本家に転身。NHK大河ドラマ「秀吉」や「利家とまつ」、テレビ朝日の「松本清張ドラマスペシャル」シリーズなど数々のヒット作を手掛ける。2017年に旭日小綬章を受章。
脚本家 竹山洋(2) 初めて買ったウッドベース
こころの玉手箱
2018年4月17日 15:30 [有料会員限定]
母は尋常小学校を終えると奉公に出された。奉公先の坊ちゃんは早稲田の学生だったという。私が北海道大学に行きたい、国立だし授業料も安いと言ったら「早稲田に行って」とじっと私の顔を見た。「早稲田の角帽を被ったら似合うでしょうね」
一年浪人したが、合格した。仕事から帰ってきた母は、小太りの躰(からだ)を揺すって田舎道を走って行った。武蔵野の向こうの母の実家の百姓家。「兄さん! お金を貸して頂戴。早稲田に……早稲田大学に受かったの」
「そうかッ、おめえ苦労した甲斐があったな」。兄嫁が大好物の手打ちうどんを出してくれたが、喉を通らなかった。余りうれしすぎると物が食べられなくなるんだ、と母は泣いた。
入学式の日に、若い学生に呼び止められた。「早稲田大学ニューオルリンズジャズクラブのものです、君、ジャズをやりませんか」
子供のころ近所のオンリーさんの家からグレン・ミラーやベニー・グッドマンの演奏が流れていた。ジャズは嫌いではなかった。モダンジャズをやりたかったが、ニューオルリンズジャズクラブはトラッドジャズを演奏していた。デキシーランドジャズと似ているがもっと古い音楽である。
「ジャズは抑圧された黒人奴隷の魂の叫びだ! 貴様たち魂を込めて演奏をしろ」。学生運動のシュプレヒコールやゲバ棒の殴り合いの音を聴きながらぼろぼろの部室で必死に練習した。楽器はベース。音感は悪いがリズムがいいと言われて、バンドの伝説的なトランペッターの外山喜雄と妻の恵子さん(ピアノとバンジョー)が結成した「デキシーセインツ」に参加した。
このベースはその時に月賦で買ったものである。ジャズで飯を食べてゆきたいと思っていたがその腕はないと悟り、バンドの先輩の弟子丸千一郎(のちに「ザ・ベストテン」などのプロデューサーで知られる)を訪ねた。
「これからはテレビの時代だ。TBSで働け」 私はドラマのADになり、のちに脚本家に転身した。ベースは大地震の時に倒れネックが折れたが捨てる気になれず修理して書斎においてある。早稲田に執着した母の姿を思い出す。
画像はイメージです。
脚本家 竹山洋(3) 恩師にごちそうになった牛丼
こころの玉手箱
2018年4月18日 15:30 [有料会員限定]
時々牛丼を食べに行く。食べながら恩師の言葉を思い出す。
深夜、師の声を思い出しながら食べる
「こういう物をご馳走(ちそう)だと思えないような人間は脚本家にはなれないよ」
TBSテレビで演出助手をしながら脚本の勉強をして26で脚本家になったが、全く売れなかった。辞めようと思っていた時にTBSのドラマのディレクターから高岡尚平氏を紹介された。助手をやりなさい、地力をつけろと励まされた。高岡さんは市原悦子の「赤い殺意」や「岸壁の母」などで知られる名脚本家で、厳しい人だという噂があった。
「金はやらない。君に教えてやるのだから教授料を貰(もら)うのが道理だが、原稿の清書、資料集め、お使い、それと肩もみ。それから俺より先に寝るな。師匠より先に寝るなどもってのほかだ。それから、女房に手を出すな」。高岡さんは優しそうな顔で笑った。笑顔の綺麗(きれい)な人で私はその笑顔が見たくて氏の傍にいたと言ってもよい。
寒い日の冬。何かのことで師に腹を立てていた。多分金がなかったのだろう。金がないというと怒る人だった。
「今日はご馳走してやる」
師は下駄(げた)をはいて外に出た。寒い夜道をカラコロ下駄を鳴らしながら駅の方に歩いてゆく。私はウキウキしながら師の後を追う。(寿司か焼肉、豪華な中華……)
牛丼屋。師は牛丼屋に入った。「こいつに並と卵と味噌汁。俺は並だけでいい」と店員に云(い)った。
(なんだ……牛丼かよ、ご馳走が牛丼か)
私は牛丼に卵を載せて唐辛子を振りかけ紅ショウガを入れてぐちゃぐちゃにかき混ぜてガツガツ食った。その時師が「君」と静かな声。「こういう物をご馳走だと思えない人間は脚本家にはなれないよ」
私は泣いた。何か仏に言われたような気がした。嗚咽(おえつ)しながら牛丼を食べた。自分が脚本を書けないのは自分の心の傲慢さにあるのだと全身全霊でそう思った。
深夜、書けなくなると1人で牛丼を食べに行く。師の声を思い出して泣きながら食う。この齢になっても傲慢な自分を恥じる。
画像はイメージです。
脚本家 竹山洋(4)妙見菩薩 負け仏の見守り、争わぬ心
こころの玉手箱
2018年4月19日 15:30 [有料会員限定]
妙見菩薩(ぼさつ)は《竹山洋》というペンネームを決めた時に身延山の久遠寺の仏師に彫ってもらったものだ。
不思議なことだが、妙見菩薩が来てから数年後に、私の父方の祖先に、おまん(ヽヽヽ)という女性がおり、その人が徳川家康の側室で日蓮宗の池上本門寺や身延山の久遠寺の大檀家だったということが分かり、この仏像とのご縁を感じた。妙見菩薩は戦の仏。竹山洋というペンネームは妙見菩薩が守護してくださっているから、不惜身命……恐れずに精進しなさいということです、と聞いた。
しかし、何か祈願しても勝った記憶がない。欲が深いせいであろう、沢山の夢、野望があり、その都度妙見菩薩に御願いをし、祈願文を書いたがいつも無為に終わった。
負け仏と呼んで、仕舞い込んだこともあった。50を過ぎたころから不運が続き仕事運、人間運が極度に悪くなり、傲慢で怖い作家との噂が満ちた。噂の元凶はある男が私の悪口を言いふらしているのです、と伝えてくれた方がいる。弁護士に相談したが噂では告訴できない、と言われた。悩んだ。妙見菩薩を厨子(ずし)から出してみると、剣が途中で折れかけていた。噂の相手と戦って剣が折れたか、と思った。仏師に頼んで剣を作り直してもらった。
その頃、先輩の弟子丸千一郎が危篤になった。病院に駆けつけて最後の別れをした。やせ細った弟子丸氏に、故のないことで迫害を受けているが、戦うべきだろうか、と訊(き)いた。
「黙って生きてゆくしかない。争うな」
弟子丸さんは苦しい息の中でそう云(い)った。
妙見菩薩を信仰した近松門左衛門もこう言っている。
あらそはぬ 風の柳を 心かな
争わないと決めてから世間の風が穏やかになった。人々が優しくなった。勲章も2つ貰(もら)った。勲章のことなど書くなと妙見菩薩に叱られるかもしれないが、怒らずに仕事をしてきたからだろうと思う。負けるが勝ち。徳川家康もこう言っている。勝つことばかり知って負けることを嫌うと害が身に及ぶ。
負け仏。南無妙見大菩薩。
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脚本家 竹山洋(5) 夢で見た万年筆
こころの玉手箱
2018年4月20日 15:30 [有料会員限定]
竹山洋のペンネームをつけ妙見菩薩(ぼさつ)を信仰し始めたのは30歳のころだったが、それでいっぺんに花開くほど世間は甘くない。仕事は来ない、名前は売れない、金もない。売れない原稿ばかり書いていた。
そんなときに夢を見た。
黄金の万年筆が金の原稿用紙の上に乗っていた。唐草模様の細い軸のもので、眩(まばゆ)いばかりに光っていた。
(これは吉夢だ)
妙見菩薩を見上げるとかすかに笑ったように見えた。《その万年筆で書きなさい》
聴こえたか幻聴かはわからない、溺れる者は藁(わら)をもつかむ。東京中のデパート、万年筆店を探したが見つからなかった。その頃母から手紙が来た。この頃家に来ないが麻雀ばかりしているのではないか、と取り越し苦労の手紙だった。腹が立って中央線に乗り甲府に行った。武田神社に参拝して開運を祈ろうと思った。
武田信玄は母方の先祖である。菩提寺に系図も残っている。本物か偽物かは知らないが、それは問題ではない。信ずるものは救われる。その日、参拝を終えて帰りの汽車まで時間があったので甲府市内を歩いた。
山梨万年筆商会。大きい看板が見えた。
(見つけたぞ! ここにある)。ご先祖の信玄公の神社にお参りに来てその街で、万年筆店に出会った。必ずある、夢の万年筆は。 ウインドウを覗(のぞ)くと、黄金色の夢と同じ万年筆がキラキラ光っていた。
以来。
「書くものが変わった」。よく言われるようになった。変わったのである。迷わなくなった。神の万年筆が書いてくれていると、自分を信じた。迷いのない脚本は視聴者の心に届くらしい。書くものがほとんどヒットした。
パソコンを使ってくださいとよく言われたが拒否した。万年筆1本と原稿用紙を持ち、神楽坂の旅館「和可菜」に籠もり原稿を書いた。不惜身命、命がけで書いた。人は私が一番多作だというがそうかもしれない。だがまだ、書く。万年筆は健在である。オーバーホールをしてもらったが、ペン先はまだまだきれいなままだと言われた。万年筆を握ってあの世へ行く。
画像はイメージです。
2022.04.17
正倉一文
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