『岸辺のアルバム』と住宅文化
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堀川とんこう先生ご夫妻
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「『岸辺のアルバム』と住宅文化」
毎週金曜日、午後10時から、全15回で放送されたTVドラマがある。 期間は、1977年(昭52)6月24日から9月30日。台風シーズンに合わせた、放送スケジュールとなっていた。
『岸辺のアルバム』(TBS系列)という、当時では珍しかった、辛口のホームドラマだ。今から44年前(2022年現在)のこの番組を、リアルタイムで観た世代は、現在50代後半以降ということになるだろうか。
かつて放送されたTBSのTVドラマ『岸辺のアルバム』
(TBS公式HPより)
【第1話】
田島則子(八千草薫)は夫(杉浦直樹)と2人の子供(中田喜子、国広富之)を持つごく普通の主婦。幸せだが平凡な毎日に少し退屈していた彼女に、ある日見知らぬ男(竹脇無我)から電話がかかってくるようになり……
【最終話】
多摩川が増水し、付近一帯に避難命令が出された。久しぶりに一家4人が揃う。則子(八千草薫)たちは一時非難の際、田島家の記録であるアルバムを持ち出そうとする。
(動画サイト「Paravi」より抜粋)
原作、脚本が山田太一、プロデューサーが堀川敦厚(あつたか)、監督が鴨下信一など、となっている。山田太一の本が採用されこのドラマが滞りなく最終回まで放送された、という観点からみると、一番の立役者は、プロデューサーの堀川敦厚、後の、堀川とんこう、ということになる。第12回では、その堀川が自ら、演出も手がけている。
リアルタイムでドラマを観た私(当時18歳)には、オープニングの、マイホームが濁流に飲み込まれていく、実際のニュース映像が、鮮烈に印象に残っている。この趣向は、当時の堀川プロデューサーが、考え出したものである。そのことは、堀川の著書である『ずっとドラマを作ってきた』(新潮社、1998年)にも書かれている。以下が、その抜粋である。
ドラマのタイトルバックの画面はディレクターが作るのが普通だが、『岸辺のアルバム』ではどういう事情だったか私が作った。人から指摘されたことはないが、プロデューサーとしては視聴率対策をたっぷり施した画面である。そのことを再放送のたびに思い出す。つまり、多摩川の堤防決壊のニュース・フィルムが最初についていて、そのあとで平和な川岸の風景になって、タイトルの文字が入る。更に途中でも短く家族が暴風のなかで叫ぶスチール映像が入る。しかし、ドラマで堤防の決壊が起こるのが最終回だ。少しでもドラマチックな印象を与えようとしているのだが、最終回のクライマックスを冒頭で明かすのは実は変なものなのだ。
堀川とんこう『ずっとドラマを作ってきた』(新潮社、1998年)より
ドラマ初放送の3年前、1974年9月1日から3日にかけて、台風16号のもたらした豪雨で、多摩川が増水した。狛江市では左岸の堤防が260メートルにわたって決壊し、宅地3000平方メートルが濁流にえぐり取られ、住宅など19戸が流された。幸いにも住民は避難を済ませており、死傷者は1人も出なかった。マイホームが庶民の夢であった当時、多摩川沿いのしゃれた住宅が、次々と流されていく光景は、そんな人々の夢を壊す残酷なものだった。
映像の中では、木造の賃貸アパートが、壊れずにそのままの形で流されていくところが、ハッキリと見てとれた。その様子を、毎週繰り返し、ドラマのオープニングで見せられた当時の視聴者が、この事実に注目しないわけがなかった。そのアパートは、木質系パネル工法の採用を売りにしていた、ミサワホームの手がけた物件だった。
強固なモノコック構造により、台風の影響で基礎の土砂を半分削り取られても、建物本体は原形を保ったミサワホームの建物(1974年:多摩川決壊)
(ミサワホーム公式HPより)
※モノコック構造については、以下の本文中で説明をしています。
木質系パネルというのは、木製の芯材を縦横に組み、それを両側から合板でサンドし、中の空間にはグラスウール(断熱材)を詰め込んだものである。そのパネルを使い現地で組み立てる工法を、木質系パネル工法という。在来工法とは異なり、柱を立てない。壁自体が、構造体(耐力壁)となっているのだ。
発想は、ツーバイフォーとも似ている。その意味で、木質系パネル工法というのは、現地で施行を行うツーバイフォーをプレハ化したもの、ということもできる。木質系パネルは、予め、工場で生産される。つまり、これがプレハブという意味である。
なお、木質系パネル工法による住宅は、強固なモノコック構造となる。モノコック構造とは、切れ目のない箱型ということだ。乗用車のボディーなども、板金による箱型となっていることから、モノコックボティーと呼ばれている。それと同じだ。どちらも軽量で、とても頑丈である。
ミサワホームの社員研修では、いまだに、『岸辺のアルバム』のオープニング映像が使われることがある、という。
「木質系パネル」の構造
(ミサワホーム公式HPより)
「モノコック構造」によるミサワホーム戸建住宅
(ミサワホーム公式HPより)
折しも1976年(昭51)9月、ミサワホームからは、この木質系パネル工法を採用した、O型という企画住宅が発売となっていた。価格帯は、当時のサラリーマンにも手が届く設定だった。O型は、その後十数年間にわたり販売され続け、累計5万戸も売れている。驚くべき数字である。
ミサワホームO型
(ミサワホーム公式HPより)
このO型は、実は日本では初めてのLDKを取り入れた間取りとなっていた。LDKというのは、リビング、ダイニング、キッチンとが一体となった間取りだ。現在では、日本全国に普及している。
それらの陰には、ドラマの功績があった。つまり、『岸辺のアルバム』以降、木質系パネル工法を得意とするミサワホームや、大手住宅メーカーのツーバイフォーの住宅が売れるようになっていた。そしてミサワホームO型の出現により、LDKという間取りも日本中に伝播した。堀川とんこうは、図らずも、日本の住宅文化に影響を与えたことになる。
了
2022.06.06修正加筆
正倉一文
【編集後記】
当時、ミサワホームの木質系パネル工法の家は、「プレハブ」と呼ばれた。プレハブの意味は、本文中の説明のとおりである。「なんだ、べニアでできた家か」と揶揄する人も多かった。つまり、プレハブというのは、安物の住宅の代名詞ともなっていた。
それは、いわれのない偏見である。例えば、ミサワホームO型の場合、改良が重ねられ、末期型では質感もかなり向上した。外観も内装も、在来工法の家とまったく区別がつかなくなっていた。
そして、現在では逆にツーバイフォーも、構造体である壁の部分をはじめ各所が、予め工場で生産されている。つまり、プレハブ化が進んでいるのだ。
現在では誰も、プレハブ=安物とは考えなくなっている。というよりも、プレハブが普及して常識となり、「プレハブ」という言葉自体が、死語となりつつある。(正倉一文)
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