随筆春秋の沿革
(公式HP)
沿革
創設
堀川としは、1911年(明44)、群馬県吾妻郡中之条町で生まれた。女学校から師範学校へと進み、1929年(昭4)には小学校の教諭となっている。1936年(昭11)、職業軍人堀川義武の妻となる。翌年、2人の間には長男、敦厚(あつたか)が誕生した。後の堀川とんこうである。さらに数年後には娘も得て一家は4人家族となった。1959年(昭34)、ついに夫義武の事業が行き詰まり、一家は夜逃げ同然に上京した。長男の敦厚は東京大学に合格してすでに上京していたので、としと娘があとから東京に出て来たことになる。夫の義武も一緒だ。このとき、美容師見習いである娘の婚約者も堀川一家を追って上京している。最初のうちはバラバラに生活していたが、彼らは中野にあるとしの仕事場で、ようやく一緒に暮らすことができるようになった。としは、洋裁請負業を手掛けていた。やがて、明るく積極的なとしの人望もあり、彼女が中心となって杉並で美容室を開店する。実業家、堀川としの誕生である。娘の婚約者をヘアカットのスターに押し上げ、結局、1984年(昭59)までに、19店舗を展開する企業をつくり上げた。かくして70歳を過ぎてからようやく生活の労苦から開放されたとしは、余暇を楽しめる境涯となる。そんなとしは、1993年(平5)3月に同志を募って、随筆春秋を創設した。彼女は82歳になっていた。
- 1993年 ‐ 堀川とし(演出家、プロデューサー、映画監督の堀川とんこうの実母)を中心として発足。
- 1993年 ‐ 斎藤信也(元朝日新聞記者、朝日カルチャーセンター講師、東京大学卒)を代表に迎える。
- 1993年 ‐ 3月 同人誌 随筆春秋の創刊号を発刊。
- 1995年 ‐ これ以降、佐藤愛子、金田一春彦、早坂暁らの協力を得て発展。のちに北杜夫、布勢博一、竹山洋らが加わる。
- 1996年 ‐ この年の初め、代表取締役が、堀川としから斎藤信也に交代した。としの病気が原因である。当時、随筆春秋は有限会社だった。
社長交代
1996年10月25日、随筆春秋の生みの親であり、有限会社随筆春秋の代表取締役だった堀川としが永眠した。享年84歳。1994年の半ばごろ「胃に悪い病気があるらしいの」と、夜遅い時間に電話がかかってきた。いつもと変わらぬ明るい声で、「先生、とうとうやられちゃった。手術することになっちゃったよ」と、笑いながらの電話だったが、言いようのないショックで言葉を失い、斎藤信也は「頑張って!」と答えるのが精いっぱいだった。その後、1996年の秋、「ものが食べられなくなっちまったよ。また入院だけど、今度は本当にダメかもしれない」という伊豆からの電話を最後に、2度とベッドから戻ることなく、10月25日、永遠の旅路に就いた。まだまだ元気に歩き回っていた1995年の暮、堀川は「先生に頼みがある。代表の座にいるのは無理だから、バトンタッチしてよ」と言い出した。斎藤は、「ダメだよ、あなた以外に適任者はいない」と強く反対したが、その後も折に触れて持ち出され、とうとう1996年の初め、主だったメンバーを新宿の談話室滝沢に招集し、「私は社長を退く。あとは斎藤先生にお願いする。みんな仲よくやっておくれ」と宣言した。有無を言わせぬ迫力だった。斎藤はその申し出を引き受けた。
内助の功
随筆春秋と佐藤愛子(直木賞作家)、早坂暁(脚本家)を結びつけのは、高木凛(脚本家)である。随筆春秋(同人誌)の第34号から第43号までは、高木自身も寄稿していた。創業期には、有名企業からの広告を獲得し、経済面での基盤づくりにも貢献した。※高木凛は堀川とんこうの妻。
その後
芥川賞作家、遠藤周作をゲスト指導者として迎えたこともある。遠藤周作は、川上宗薫と並んで、佐藤愛子が最も懇意にした異性の作家仲間である。
芥川賞作家 遠藤周作
堀川としが1996年、その後、金田一春彦が2004年、北杜夫が2011年、斎藤信也が2016年、早坂暁が2017年、布勢博一が2018年に逝去
- 2019年 ‐ 法人格を得て「一般社団法人随筆春秋」となる
- 2020年 ‐ 堀川とんこうが逝去
- 2020年 ‐ 「佐藤愛子奨励賞」を創設
- 2022年 ‐ 中山庸子が加わる
- 2023年 ‐ 3月、創立30周年を迎える。4月、指導者で脚本家の竹山洋が逝去
- 現在の指導者は、佐藤愛子、中山庸子、近藤健
直木賞作家 佐藤愛子
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